第3回IRI言語・文化コロキアム公開講座 「古代の枚方と渡来文化」開催

 国際文化研究所の公開講座「第3回IRI言語・文化コロキアム」が128日、「古代の枚方と渡来文化」をテーマに中宮キャンパスのICCホールで開かれた。佐古和枝・英語国際学部教授、枚方市教育委員会の大竹弘之氏、平林章仁・龍谷大学教授の3人が考古学や文献史学の立場から、古代史上、重要な舞台となった枚方と朝鮮半島などからの渡来氏族との関わりについて講演した。教職員や一般の聴衆ら合わせて約100人が古代のロマンに思いを馳せた。

▲佐古和枝・英語国際学部教授

「古代の枚方って、どんなとこ?」

 最初に登壇した佐古和枝教授は「古代の枚方って、どんなとこ?」と題し、旧石器時代から奈良・平安時代にかけての枚方周辺の状況について概説した。弥生時代について、「のどかで平和なイメージが強いが、中・後期は戦乱の時代」と述べ、この時期に見張り場としての高地性集落を含む多くの遺跡が穂谷川から天野川にかけて出現するとし、この地域に古墳が多く分布することは、淀川と木津川が合流する交通の要衝にあったことが要因と話した。
 

 古墳時代に関しては、馬や馬具など朝鮮半島からさまざまな文物が伝わると同時に、韓国でも日本の前方後円墳の影響が見られるなど双方の間に交流があったことを説明した。そのうえで、507年に樟葉宮で即位し、高槻市の今城塚古墳がその陵と伝わる継体大王について、淀川沿岸に宮を置いた背景として、船の重要性ととともに馬の重要性も認識し、地元の渡来系馬飼集団とつながりが深かったことを指摘した。

▲枚方市教育委員会の大竹弘之氏

「考古学から見た北河内の渡来人」

 続いて、遺跡の発掘に携わっている枚方市教育委員会の大竹弘之氏が「考古学から見た北河内の渡来人」をテーマに、出土物を例に枚方周辺と渡来人との関わりについて語った。大竹氏は「国内では見慣れないものがまとまって出土した場合、渡来人が持ち込んだと推定される」と話し、穂谷側沿いの小倉東遺跡(古墳時代)から出土したくつわについて、朝鮮半島西部にあった百済でも同じものが見つかっていることなどを踏まえ、「北河内のこのあたりは、馬匹生産と関わった渡来系の人々がいたのではないか」と推測した。
 

 枚方市内に残る百済寺跡については、奈良時代後半からの土器が出土しており、短期間実在したとし、奈良・薬師寺の伽藍配置に似ているとしながらも、むしろ、朝鮮半島の統一新羅のもののほうが大きさや形状において通じるものがあると指摘し、「奈良時代の後半頃、大仏開眼など何かのきっかけで朝鮮半島から入ってきたのではないか」と語った。

▲平林章仁・龍谷大学教授

「渡来系集団から枚方の古代を考える」

 最後に、平林章仁・龍谷大学教授が「渡来系集団から枚方の古代を考える」として、古事記や日本書紀の記述から枚方の古代史の特徴を考察した。仁徳天皇の時代に淀川に築かれた「茨田(まんだ)堤」について、記紀にある「秦人」「新羅人」の記述に基づき、大和政権が国家事業として直轄地を設けて農業経営にあたるため、渡来人を招いて淀川の流れを安定化させようとしたと解説した。また、築堤に関連して出てくる「祟神(たたりがみ)」をまつる儀礼について、そのルーツは渡来系にあると思われると述べた。
 

 平林教授は「渡来系の人々は多くの場合、朝廷に招かれて集団でやってきて、住む場所も指定されていた。渡来人たちは日本に来た後も郷里と交流を続け、今日の華僑のように常にネットワークを活用していた。日本の王権にとっては、まさにその点に彼らを招く目的があったのではないか」と指摘した。

▲熱心に耳を傾ける聴衆
 

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