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概要

外大通信デジタルブック

25――パキスタンのご出身で、アメリカでビジネスの世界に入ったとうかがいました。イクバル 17 歳の時、航空機のメンテナンスを学ぶため、パキスタンから米国の大学に入りました。旅行に興味があったので航空会社への就職を目指しましたが、自国に1社しかなかったため、機械エンジニアの道に転向したのです。 大学院卒業と同時に自動車メーカーのフォード・モーターに入社しましたが、エンジニアの世界は、見た目は堅実だが、遠くまで見通せないと感じ、企業戦略の方面に興味を抱くようになりました。そこで、会社勤めの傍ら大学院に通い、経営学修士(MBA)と日本学のMAのダブルディグリーを取得しました。 その後は、役員兼最高財務責任者(CFO)として企業を転々としました。フォードからGMグループのデルファイ・オートモーティブに移り、続いて米国を本拠とする化粧品製造販売エイボン・プロダクツ、医療機器製造販売などのベクトン・ディッキンソン、広告のマッキャン・ワールドグループと業種もさまざまです。CFOとしてだけでなく、人事やセールスなど幅広い業務に携わった経験から日本のビジネスについて深く知ることができました。 2014年には、ベネッセ・ホールディングスに国内教育事業担当のCFOとして迎えられ、翌年ベネッセとフォードからベネッセまで 豊かなビジネス経験情熱をもちベストを尽くせば成果は収められるそのグループ企業全体のCFO代行に就きました。――どのような経緯で日本との関係ができたのでしょうか。イクバル フォードに勤めていた1990年代半ば、フォードが筆頭株主を務めていた日本のマツダの経営環境が悪化し、その立て直しチームの一員として広島に滞在しました。ファイナンスとはどういうものか、企業にどう運用できるかなど多くのことを学びました。この時の経験が後に財務の道を歩む基礎となりました。 同じ頃、大学院で日本学を専攻し、日本語を学び始めました。このことが縁で日本行きを勧める人があり、99年にデルファイ・オートモーティブ日本法人に就職しました。その後は各社の日本法人での勤務です。――一転して教職の道へ入りますが、心境の変化でも。イクバル これまでの歩みを振り返ったとき、人を育てることが一番好きなことだと気づいたのです。自分が育ててもらったことへの恩返しがしたいという気持ちも沸きました。 担当しているのは、ビジネス経験を生かしたリーダーシップ論、企業経営入門などで、会社はどんな意味があるか、企業と社会の関係、人間の価値観といった内容です。 「日本の文化・社会」の授業では「芸者」をテーマにしています。子どもの頃から写真に親しみ、日本でも写真を撮るうち、京都の茶屋とつながりができました。この8年ほど舞妓や芸妓を撮影しています。大学院で日本文化を学んだ時から興味を持ち続けてきた世界でした。英国のノーベル賞作家カズオ・イシグロが「日の名残り」で外国出身者ながら最もイギリス的なものを書いたように、私も普通の日本人がなかなか入れない世界について学び、外国人がもつ日本への固定観念を変えるきっかけを作りたい。また、今後も花街文化が続いていくよう、何かサポートしたいと考えています。――指導する相手が企業の社員から学生に変わったわけです。イクバル 関西外大の学生は明るくポジティブでフレンドリーであると思います。ただ、もう少し、批評する力や分析する技術が必要だと感じています。ある問題にどういう側面から取り組んだらいいかを考える力をつけさせるために手助けをしたい。 私はコーチングにも取り組んでおり、国内外の中間管理職の人たちを相手にしています。時には学生の悩みの相談に応じています。何が壁になっているのか、少しサポートするだけで人はかなり変わるものです。 様々な問題に直面した時、最初の一歩を踏み出すことが大事です。間違っていてもいい。「人間の知能は様々な挑戦によって伸びる」ということは科学的な研究で証明されています。私はあちこちで違う世界に入りましたが、情熱をもってベストを尽くせば、成果を収められると確信しています。中途半端な気持ちでは意味がありません。ベストを尽くせるかどうかが大切なのです。フォードでエンジニアをしていた頃イクバル教授が撮影した京都・祇園の芸妓