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留学で心に誓った
Now or Neverの精神が
今も自分を支えている。

留学で心に誓ったNow or Neverの精神が今も自分を支えている。

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何でも挑戦してみる
自らチャンスを作り出す

こんにちは、Take Action!編集部です。炭酸水メーカーの世界ブランド・ソーダストリーム社の日本オフィスで働く澤入康恵さんは、大学3年のときに2年間、アメリカの大学にダブル・ディグリー留学しました。「そのときの経験が、自分の性格と人生観を根底から変えてくれました。あのときの努力と得られた喜びは、他では決して経験できなかったと思います」と振り返る澤入さんに、当時の思い出をお聞きしました。

炭酸水を飲む食文化を日本でさらに広げたい

 私はいま、イスラエルに本社がある炭酸水メーカーの世界的ブランド、ソーダストリーム社で働いています。入社して今年で5年目、私が所属するチームでは、どの時期にどの製品がどれぐらい売れるか、日本市場の需要を予測し、イスラエル本社のスタッフとコミュニケーションを取りながら製品の輸入手配を行っています。ヨーロッパでは昔から日常的に炭酸水が飲まれてきましたが、日本で炭酸水市場が拡大したのはこの10年程のことです。成長を続ける日本でさらなる普及を後押しするために、広告や店舗での販売促進のタイミングに合わせ、セールスやマーケティング部と連携しながら綿密な需要予測をしています。

 先日は初めてイスラエル本社に出張し、世界中の同僚と一緒にワークショップに参加しました。すべて英語で行われた研修では「需要予測からすべての仕事が始まる」ことを改めて教えられました。日本で今後もソーダの需要が伸び続ければ、そのニーズを満たすために、生産体制を強化したり、人を新たに雇ったりすることが必要になるかもしれません。正確な需要の予測があってこそ、企業は的確な経営ができるようになります。その研修を通じて、自分が担う仕事の重要性を実感したところです。

 ソーダストリーム社の前に、新卒で入社したのは、海外からさまざまな製品を輸入して販売する商社でした。関西外大と留学で身に付けた英語力を生かして、海外とやりとりする仕事がしたいと思って就職しました。製品のジャンルを問わず、いろいろな商品を扱えることに面白さを感じてはいたのですが、3年弱ほど働くうちに、「自社で開発した製品を売る会社で働いてみたい」と考えるようになりました。それでソーダストリーム社に転職したのですが、私自身が自社の炭酸水メーカーを愛用しており、本当に気に入っている製品なので、それを売る仕事に大きなやりがいを感じています。最近、テレビドラマを見ていると、キッチンのカウンターに炊飯器と並んで自社のソーダメーカーが置いてあるのを発見し、嬉しく思いました。扱う製品自体に愛情を持てると、本当に仕事が楽しくなるということを実感しています。

海外への憧れが導いたダブル・ディグリー留学

 私は物心ついた頃から、海外への憧れがありました。小学生の頃に『ハリー・ポッター』シリーズの映画を見たり、小説を読んだりしたことでイギリスに興味を抱くようになり、「大人になったら英語をかっこよく話せるようになりたい」と思うようになったのです。高校生のときにイギリスを旅行し、向こうの素敵な建物や生活を実際に見たことで、「大学では絶対に留学しよう」と決めました。

 関西外大を志望したのも、留学することを前提に大学を探すなかで、関西外大が充実した留学サポートを行っていると知ったことが理由です。そのため関西外大一択で、他の大学は受験することを考えず、指定校推薦入試で入学しました。入学した最初の頃は、1学期間の留学を考えていましたが、さまざまな留学プログラムがあることを知ってからは、2年間のダブル・ディグリー留学に挑戦したいと思うようになりました。ダブル・ディグリー留学は学内でも人気が高く、留学選考で課せられるTOEFLの基準点や、面接などの選考に合格する必要があります。高校生のときから英語自体は好きでしたが、大学入学当初は話せず、選考に合格するためには本気で語学力を向上させる必要がありました。

 「ダブル・ディグリー留学に挑戦したいんです」とクラスアドバイザーの先生に相談すると、「本気で行きたいならマインドを変える必要がある。これから授業ではいっさい日本語を話さないようにしなさい」と厳しくも、今振り返るととてもありがたいアドバイスをいただきました。それから先生の言うように、授業ではすべて英語でやり取りするようにし、家で過ごす時間や通学中もリスニングやスピーキングの練習にあてました。留学準備教育として留学生別科で海外からの留学生とともに授業を受け、目標であったダブル・ディグリー留学の選考に合格することができました。

 ところがいざ留学してみると、私が思い描いていた幻想は、すぐに打ち砕かれました。私が留学したのは、アメリカ・オハイオ州の小さな街にある、マウントユニオン大学という学生総数2000人程の大学です。

 留学前は「教室で現地の学生たちに囲まれて、楽しいキャンパスライフを送るんだろうな」と想像していたのですが、実際には、英語があまり話せないアジア人学生に、積極的に話しかけようとする人はいませんでした。1年目は2人部屋の大学寮で生活しており、同室のドイツからの留学生とは仲良くなったのですが、寮から大学に行って教室に入ると、話しかける相手が一人もいませんでした。ランチの時間になり、アメリカ人の学生が友だちと集まって楽しそうに談笑しているなか、私はいつも一人で座ってランチを食べるのが本当に寂しく、悲しくなりました。クラスの授業でチーム分けをするときも、周りの現地の学生たちが、私とどう接したらよいか戸惑っているのが伝わってきて、それがまた寂しさに拍車をかけました。

合わせてチェック

「ダブル・ディグリー留学」とは?

留学2年間を含む4年半をかけて、関西外大と留学先大学の2つの学位取得をめざす留学制度。学位取得後は帰国し、国内で就職・進学する、海外の大学院へ進学する、または、アメリカの大学に派遣された場合、Optional Practical Training(1年間アメリカでインターンシップに参加する制度)を利用し、海外で就職するなど、選択肢が大きく広がります。

自分から話しかけて得た一生の友だちとの絆

 そんな辛い留学1年目の終わり頃、私の心に大きな転機が訪れました。「せっかく頑張って英語を勉強して、選考にも通ってアメリカまで来たのに、このままで終わっていいわけがない!」と強く思ったのです。その日から私は、自分の心の中に「Now or Never!」(今しかない!)という言葉を常に心に誓い、教室でもどこでも「話したい」と思った相手には、自分から積極的に話しかけることにしました。それまでに何度も「話しかけたいな……、でも私なんかが話しかけたら迷惑かな」と躊躇して、会話のチャンスを逃していたことに後悔していたのです。実際、その日から私の行動は大きく変わりました。大学内の女子の多くが加入する「ソロリティ(Sorority)」と呼ばれる集まりに自分から行って、「留学生ですが、入れてもらえませんか」と頼むと、快く受け入れてもらえました。また大学内のボランティア組織にも入り、活動をするようになると、少しずつ現地の学生と顔見知りになり、やがて友だちと呼べる存在が増えていきました。

 さらに大学が運営しているFMラジオ局の門を叩き、ラジオDJにもチャレンジしました。1年間、週に1度、天気予報や現地のローカルニュースを英語で伝え、音楽をかけるのがDJの役割で、地元のおじいちゃんが電話で「この曲をかけてくれ」と突然頼んできたりすることもありました。そのラジオはインターネットを通じても聞くことができ、関西外大でお世話になっていた国際交流部のスタッフの方が、わざわざ聞いてくれてメールをくれたのが良い思い出です。

 この2年目からの「Now or Never!」のチャレンジは、本当に私の性格や人生観を根底から変える経験となりました。引っ込み思案で恥ずかしがり屋の自分を捨てて、オープンなマインドで接すれば、相手も心を開いて応じてくれると知ったのです。2年間の留学の終わりには、涙を流して帰国を悲しんでくれるほどの友だちも10人以上できました。私は結婚したのですが、日本で行った結婚式にもアメリカから何人かの友だちが来てくれ、再会を喜び合いました。また留学先では得難い先生とも出会えました。私は留学先の大学で、「コミュニケーション学」を専攻したのですが、その授業でお世話になった先生は、現地で親のように接してくれ、現在も交流が続いています。留学は私にとって「本当に行ってよかった」としか言えない経験であり、あの2年間のような充実した時間は、他では味わえないと感じます。

 私はいまの仕事でも、困難なことに直面したときや、やったことがないことに取り組むときは、よく「Now or Never!」と心のなかで叫んで、一歩踏み出すようにしています。関西外大の学びと2年間のアメリカ留学は、人生にチャレンジし続ける強い意志を与えてくれました。

※本記事は「大学案内2024」を元に再構成したものです。資料請求はこちら
※記事の内容は取材時点(2023年3月)のものであり、最新の情報とは異なる場合があります