
私の仕事は「外交官」。日本の外務省からオーストラリアに駐在し、在メルボルン総領事館の副領事を務めています。でも、大学時代、最初に抱いた夢は国連職員。キャリアプランを変えたきっかけは、アメリカ留学中に起こった東日本大震災でした。
<<Profile>>
「猪突猛進型」と自分で言うように、国連職員の夢に向かって突き進み、留学中の経験から外交官へと進路変更するも実現。大切にしているマインドは「Move(とにかく動け)」
日本と、日本国民のためになる情報を収集。
日々の業務で大切にしているのは、ここメルボルンのニュース報道などから得た新鮮な情報を、速く正確に東京の外務本省へ伝えること。また、メルボルンの政治家や、世界各国の外交官と交流するなかで情報を集め、「国益に資する」、つまり日本のためになる情報だと判断した場合、よく分析したうえで本省に共有します。外交官として、少しでも日本や日本国民の利益、そして世界の発展につながればという思いで業務にあたっています。
在学中、最初にめざした職業は、国連の職員でした。きっかけは1年次に、一人旅で訪れたニューヨークです。国連本部の見学ツアーに参加し、そこで働く多国籍な職員がコーヒーブレイクをしながら、英語という共通言語で世界情勢について語り合っている姿を目にしました。純粋に「かっこいいな!」と感銘を受けました。国連総会が行われる議場にも入り、「将来、自分もここに立ちたい」と思うようになり、帰りの飛行機のなかではもう、国連職員になることが目標に。調べてみると、国連職員になるためには、大学院を修了して得られる修士号が必要であることがわかりました。それを実現するためにダブル・ディグリー留学を活用し、アメリカの大学の学位を取得。その後、現地の大学院に進む計画を立てました。

震災がきっかけで「国際益より国益」に。
留学先のパシフィック大学では、国連職員になることを意識して国際関係学を専攻しました。関西外大で十分に準備してから留学に臨んだつもりでしたが、現地の学士課程の授業は、相当なスピード。留学して最初の数カ月は、「今日も全然発言できなかった…明日こそは頑張ろう!大和魂!」と奮起する日々でした。
そんな留学生活の期間中に東日本大震災が起こり、アメリカでも大々的に報じられました。私は教室で唯一の日本人だったので、教授や学生から日本の社会状況はどうなっているのかと聞かれ、授業の冒頭でプレゼンテーションをする機会が多くなりました。自然と「日本の代表として発言している責任感と使命感」が芽生え、国連職員として「国際益」に尽力するより、日本の「国益」のために働く国家公務員になりたいという思いが高まりました。
就職活動中、外務省の方から「外務省職員として国連に出向するという道もある。外務省からキャリアをスタートしてみてはどうか。君のような人が外務省に欲しい」とアドバイスを受けたことにも背中を押されました。アメリカに留学していなければ、きっといまの仕事には就いていなかったと思います。

留学で得た、価値観の広がりが生きている。
いま思えば、誰よりも「諦めない」という気持ちを強く持っていました。国連職員を目標にダブル・ディグリー留学をめざし、図書館にある英語教材で毎日勉強したり、留学生やネイティブの先生とコミュニケーションを取ったり、関西外大の環境をフル活用しました。
留学先では毎回、講義が終わったら教授のオフィスを訪れマンツーマンで指導してもらいました。あまりのしつこさに閉口する教授もいましたが、アメリカで目的を達成するためなら何でもやってやる!という気持ちでした。レポートも誰より早く提出し、添削を受けて少しでも評価を上げるよう努めました。そんな努力の積み重ねにより、多くの科目で最高評価のAをもらい、少しずつ自信がつきました。
アメリカという人種のるつぼで国際関係学を学んだことは、そのまま、いまの仕事に生きていると感じます。多くのディスカッションを通して、国や民族に対する固定観念が崩されました。自分とは異なる価値観があって当たり前、それは政治や外交に当てはめても同じことが言えます。国家間でも考え方の違いがり、たとえ腹立たしいことが起こったとしても一歩踏み込み、相手の立場にたって考える必要があります。
いまそれができているのは、パシフィック大学での経験があったからにほかなりません。いま、卒業生として在学生のみなさんにスピーチをする機会が多いのですが、その時にはニューヨークへの一人旅で撮った写真と、入職後の写真を並べて見せます。そしてこう言うのです。You can do it! 決して諦めなかった私から、可能性を秘めたみなさんへのメッセージです。

※本記事は「大学案内2023」を元に再構成したものです。資料請求はこちら
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